玉響記 2

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平成最後の終戦の日

今日は終戦の日、いや敗戦の日です。
記憶力は悪いという事もありますが、振り返るより前を向いて進みたいと思っているのですが。
進むには残りが少なくなってきました。この際、振り返って少しでも戦争はしてはいけないということを後に残る人に伝えるべきなのかもしれません。そう思う人が多いことも感じます。
今朝の新聞に終戦2週間後に当時11歳だった今の天皇陛下に香淳皇后が書かれた手紙とその返信でしょうか 陛下の手紙が載っていました。
=戦なき世を歩みきて思ひ出づ かの難き日を生きし人々=
30年間 一度も欠かさず追悼式に出席を続けられ来年は皇太子へ引き継がれます。
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私は大阪で生まれ幼稚園まで育ちました。この写真の裏には母の筆跡で昭和15年10月 防空演習の日と書かれています。この時の記憶は全くありませんので 映画かドラマのシーンのような気がします。既にモンペを履いています。これが嫌いだった記憶はあります。着物を潰して作ったのでしょう。紐を腰で括るのでトイレが間に合わないのです。この時、満3歳です。足手まといだったでしょうね。その後この辺りを訪れた時のことは誕生の地」=リンクあり=に書いています。
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幼稚園の「オサイク」と書かれた冊子のようなものが何故か残されて 中にこんなものがありました。金鵄勲章、キンシクンシャウと旧仮名遣いになっています。

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大日本帝国海軍と書かれたのは 勿論、先生でしょうけれど こんな子供にもそういう思想?を教育されたのでしょう。
幼稚園卒園後、奈良へ疎開しました。そこでは疎開っ子という目で見られ 今でいうイジメだったと思いますが そんな風には感じませんでした。
2年生の時の担任は 何故かそんな子たちをも大事にして 疎開先から転校していく時、街の写真館で記念写真を撮りに連れて頂きました。去年、亡くなり探したのですがその写真が見当たらないのです。
疎開後、大阪の第1回目の空襲で我が家は焼けました。3月13日23時57分~14日3時25分(約3時間半)大阪上空を飛んだB29は274機、アメリカの目標に我が家の辺りは入っていたことが書かれています。136,107戸 が被災したそうです。当然、私が通っていた幼稚園も全焼だったようです。
大阪では8月14日まで8回 大空襲があったようです。
祖父母だけが残っていたのですが その時の話は聞いていませんが姉が戦火の中 祖父が勤めていた銀行へ行ったらしいと話してくれた事がありました。奈良から生駒山の向こうが真っ赤だった記憶はあり 翌朝、父が探しに行きました。夕方、疲れ果てて足にマメを作って帰宅した事、その後数日して祖父母が疎開先へ来たことは覚えています。

学校へは小1でも馬草(まぐさ)を持って行く為 母と採りに行ったりイナゴを焼いて食べたり 私たちにはあまりまともな食料はなかったのか腐りかけたさつま芋を食べた記憶はあります。4才年上の姉は勤労奉仕に行ってました。
学校の帰り姉と歩いていると飛行機が低く飛んできて、近くを歩いていた従兄弟のお兄ちゃんが堤防の下へ押し倒してくれた事があり 多分、敵機だったと思われますが ひょっとして命拾いしたのかもしれません。
アルミのお弁当箱にジャガイモを裏ごしして白いご飯に見えるように入れたものを持たせてくれた事がありました。疎開先ではお百姓さんの子はご飯や分厚いおかきを食べていたのが羨ましかったです。
この辺りも私はボーッとした子だったのか詳しい記憶はなく 夏休みにお習字を習いに行ったこと、貧しいながら筆や硯もあったのは母が無理をしてくれたのか恵まれた方だったのでしょう。
大阪の焼け野原には数回行ったようで 疎開に持って行けないお皿やお茶碗が地中に埋められていました。ガラスのコップなどが瀬戸物にくっ付いて使い物ならないようでした。随分高温で溶けたのでしょう。

3年生の夏休みに大阪へ引っ越しました。勿論、元の家ではありません。
4,5年生になった頃には お稽古事をする人も出てきましたが そんな余裕はなかったようで高校生になって書道を習わせて貰ったのが最初でした。

記憶も曖昧です。それでも戦中、戦後は不自由もありましたが それが当たり前だと思っていました。不自由な生活にも耐えられる自信はあり我慢する事を覚えたのは収穫だったかと思います。




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by souu-4 | 2018-08-15 17:57 | 雑記 | Comments(6)
Commented by oss102 at 2018-08-16 10:50
まだ幼かったですね。疎開先の子は食べものはたっぷり・・私の引き揚げた漁村の子は、白米を食べていました。
わが家は山の方のでんぷん工場の廃棄物・・腐臭がしてミミズの入ったものをより分けて団子汁が出ました。
成長期の私だけが栄養失調になり、頭はオデキだらけになりました。一番暗い少女時代の思い出です。
Commented by souu-4 at 2018-08-16 20:19
oss102 さま
そちらの疎開っ子は恵まれていたのですね。
当時の事は思い出したくない思い出ですね。申し訳ありません。
Commented by 片田舎動物病院 at 2018-08-20 08:08 x
今回のようなお話、
伝える方がどんどん少なくなっていますね。

私は戦後生まれですが、
自身の幼少期の話さえ、
子供にうまく伝えられないのが現実です。
Commented by 花布 at 2018-08-20 22:53 x
お写真は、その当時、どなたが撮影されたのでしょうか?
貴重なお話も聞かせていただき感動しました。
幼稚園時の作品が取ってあったことと、上手な事に
驚きました。

山のテレビ番組、良かったですね!
カメラマンさんの事は、同感です。
私も立山登山しましたが、剣は憧れの山で終わりました。

Commented by souu-4 at 2018-08-21 08:27
片田舎動物病院 さま
勿論、戦争体験者は少なくなりましたね。しっかり知っている筈の
両親、祖父母は何も言わずに逝ってしまいましたからね
もっと聞いておけばよかったと思うのが遅過ぎましたね。
Commented by souu-4 at 2018-08-21 08:34
花布 さま
多分、この写真は母が撮ったと思うのですが これを疎開させていたとは
思えません。戦後どなたかから頂いたのでしょう。幼稚園の絵は
先生が大方手伝って下さったんだと思います。これもよく残っていたと
思います。唯、私が居る間だけでしょう。家や家具と一緒に処分されるのでしょうね。
剣岳 眺めるだけの山でしたが 映像だけでも観られて感動でした。
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一瞬のきらめきを大切に


by souu
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